てい鍼の開発 てい鍼の復活 「刺さない鍼治療」を普及させる。 伊藤鍼灸医療器製作所が作る鍼は、微細加工の技術だけではありません。東洋医療に対する深い知識があり、鍼灸師の手技についての洞察が組み合わされた唯一無二の鍼です。中でも特に重要視しているのが現代に復活させた「てい鍼」です。西洋医学の普及拡大とともに鍼灸治療はだんだん馴染みのないものとなり、若い世代の方々には鍼治療はもの珍しい体験となってきました。その結果として「鍼を刺す」ことが敬遠される状況となり鍼灸は斜陽産業ともなる業界になってきました。当然のことで新たに鍼灸師にチャレンジしようという若者たちも年々少なくなり、高い技術をもつ鍼灸師もまた高齢化が進んできていることなど、日本において東洋医療の代表たる鍼は危機的な状況にあるとも考えています。 イトウメディカルはこの鍼灸業界の新たな活性化を目指して、セミナーを開催して鍼灸の技術向上や情報交流を図るなど様々な取り組みを行っています。その取り組みのひとつが「刺さない鍼治療を現代日本の鍼灸界に復活させる」ことです。そしてそのための技術の再発見と道具となる「てい鍼の復活」です。代表の伊藤勝則は、鍼灸医療機器の製造販売という生業(なりわい)だけでなく鍼灸業界の発展のために、東洋医療の研究に時間を割いて取り組んできました。自分たちの使う道具をより良いものにするためにどうしたらいいのか?と興味をもって仕事に打ち込むからこそ、さまざまな出会いと「てい鍼の復活」のきっかけを与えてくれたのかもしれません。 江戸時代初期に使われていた9種類の鍼と素材 江戸時代初期(17世紀)の日本の書物によると、当時は9種の鍼が使われていたことを窺い知ることができます。例えば1686年の岩田利斎「鍼灸要法指南」という書籍では、てい鍼を含んだ鍼の形状分類として「九鍼の図」が掲載されています。このなかで「毫鍼」の形状が現代の日本の鍼の基本形となっています。またこの書籍では絵図はないものの、撚鍼法、打診法、管鍼法の3刺鍼方式の解説文を掲載しています。 本居宣長の使った鍼の調査 代表の伊藤勝則は、筑波技術大学の和久田先生による鍼灸・手技療法史に関する研究の一環で、三重県松坂市にある本居宣長記念館所蔵「春庭翁醫療鍼」の所蔵品調査を行いました。本居宣長はその72年の生涯のうち、34年かけて取り組んだ「古事記伝」という古事記の注釈書が有名ですが、日中は医師として病人を診察して漢方薬を調合して渡し、その著書の執筆と研究は夜にコツコツを行ってきたといいます。源氏物語や古事記などの日本古代史の研究だけでなく、その著作活動は日本語の音韻や地名にまで言及しており、いったいどれほど精力的に活動していたのかと驚愕を禁じえません。 古代中国で発展した鍼の技術が日本にやってきたのは大和王権時代にさかのぼることができるようです。また本居宣長も読んだ古事記や日本書紀には、天皇が瀉血治療(破身)を行って病気を治療した記述があるそうです。これがおそらくは鍼治療ではないかと考えられています。また日本書紀には皇極天皇の時代の高麗での話として鍼が語られているそうです。まだこの時代の鍼についての医術書が見つかっていないようで、明確に鍼について文献で確認できるのは大宝律令という法律になるそうで、律令の中に官職として「針博士」があるのだとか。鍼の歴史も興味深いですね。おもわず脱線してしまいましたが、本居宣長もきっと歴史探求が面白くてしょうがなかったんでしょう。 さてこの所蔵品調査では、本居宣長が使ったと思われる鍼箱からでてきた豪鍼と鍼管を確認してまいりました。報告書には、鍼の本数だけでなく、鍼や鍼箱、鍼管の詳細なサイズ、その素材が銀や金の合金となっていたことなどを詳細に報告しています。鍼の材料となる金属についてもすでにこの時代には様々な知見が蓄積されていました。鉄には人体にほとんど影響がない程度の「少量の毒」があることや、打鍼術の中興の祖とされる初代・御園意斎は金銀の鍼を作り、従来の鉄鍼に較べて柔軟な刺激を与えることができることなどです。すでに江戸時代に鍼は形状だけでなくその素材についても治療において重要な役割を果たしていることが歴史的に明らかとなっています。読書家だった本居宣長もおそらくは上述したような知識があって、銀の鍼をつかっていたのではないでしょうか。 イトウメディカルの「てい鍼」